知能の代価

僕のノートは薄っぺらく、他の人が見るととても解り辛い。ノートを人に見られることを想定せずに書いてるからだ。要点と教科書に無く必要な情報、それだけ書けばいい。ノートとはそういうものだと思っている。
僕の知人(以下Aとする)のノートは分厚い。Aは今でも小学生の頃に言われたとおりの書き方をしているのだろう。黒板の文字を全て書くというやり方だ。馬鹿馬鹿しい。それならば、教科書を見ればいいのに。しかし、テスト前になると、Aのノートは大量に量産される。無駄こそ多いものの、全ての情報を網羅しているためだ。Aはノートをコピーさせる代わりに、いくばくかの代価を得ている。僕は休んでいた一日分のノートをコピーさせてもらい、Aにジュースを渡した。Aは少し不満そうだった。
僕の友人(以下Bとする)は頭が良い。Bは他の人が難解で理解できなかったことも、解りやすく解説してくれる。テスト前になれば、多くの人がわからないことを質問しに来る。Bは何の代価も要求しないし、誰も代価を渡そうとしない。Aのノートのように存在がわかり易くないためだ。人は物を渡されれば、何かを得たと感じる。例えそれが錯覚*1であっても。しかし、何の物質的媒体も通さず問題を理解したとしても、何かを得たとはあまり感じない。僕はBの方が高い代価をもらうべきだと思う。ノートは誰でも取れるが、難解な問題の解をわかり易く説明できる人は少ないからだ。
僕は質問に答えてくれたお礼に、Bの食事代を払った。

*1:この話では、ノートを得ただけで理解したつもりになること