イタイ日記の意味とか価値とか

今日海へ行った。何の目的も意味も無い。其処には何も無く、ただ幾つもの波がよせては返し消えていった。僕は無性に大声を上げたい衝動に駆られ、思うがままに叫んだ。そして、全力で走り、壮大に転んだ。意味など無い。そうだ、海へ来たことも、大声で叫んだことも、突如全力疾走したことも、その結果転んだことも意味は無い。
僕が生きてることは意味があるのだろうか。あるかもしれないし、無いかもしれない。どちらにしろ難しすぎて、僕には判断が付かない。それでも、意味は無くとも、価値はある。海へ行ったことも、大声で叫んだことも、全力疾走したことも、派手に転んだことも、僕が生きていることも、何処かで誰かが死んだことも、全てのことに価値はある。たとえ世の中が腐ってるように感じても、全ての行為が無駄に終わろうとも、その価値が正であるか、負であるかは別として価値はある。世の中が腐って感じるのは自分の感覚で、全ての行為が無駄に終わったのは自分の行為の結果だ。正負の判断するのは自分自身だし、正の価値を作り出すのも、負の価値を作り出すもの自分自身だ。
言い訳したり、人の所為にすることは無駄だ。価値はあるが恐らく負だ。ほとんどのことは自分で何とか出来るだろう。自分で出来なければ、他の人を頼ればいい。どちらにしろ自分から動き出さなければ、何も変わらない。


このイタイ日記には意味がある。価値は負だ。明らかに負でも、僕に思考することを促す意味がある。何処かの誰かが、僕の勘違いや間違いを正してくれるかもしれない。馬鹿が思考停止することはイタイ日記を晒すことよりも負である。僕はこの日記を書き続ける。