僕と才能

僕は昔、自分のことを才能あふれる天才だと錯覚して、自惚れていた。日々の授業は容易な論理が解る頭脳と常人ほどの記憶力があれば事足りたためだ。


ある日の理科の授業のことだった。先生は机の上に風車の入った奇妙な試験管のようなものやその他多くの機材や資料を用意していた。先生がスイッチを入れると試験管の中に光が走り、その羽は光を受け回りだした。教室はそのよくわからない現象にざわついた。そして、先生は「このように、羽根車に電子を当てると羽根車は回ります。これはどのようなことを意味しているのでしょうか」と言った。教室は水を打ったように静まった。僕もその例外に漏れず、質問の意味するところさえよくわからなかった。先生はにんまりと笑い、「誰かわかる人はいないの」と続けた。無論、教室の中の静寂は続いた。いや、延々と続くと思われたその沈黙は、一人の女子生徒によって破られた。彼女は「はい」と言って、垂直に手を上げた。先生は面白そうに、その生徒を指差し「どうぞ」と言った。クラス中の視線を独占した彼女はすっと立ち上がり、はっきりと通る声で回答を発した。


「電子が質量を持つことを意味します」


先生の顔が青ざめた。クラスの大半が彼女の回答を理解できてないようだった。僕は瞬時に全てを理解した。彼女の解がまぎれも無く正解であること。先生はこの時点で正解が出ると思っていなかったこと。先生が一時間かけてヒントを出し理解させようとしたことを、彼女が一分と立たずに何のヒントもなく理解したこと。机の上のほかの教材や資料が無駄になったこと。本当の才能がどういうものかということ。僕がこんなに簡単なことにも気がつけないような人間だと言うこと。先生は無理やり笑顔を作り正解者を称え、他の生徒にも理解できるように解説し、机の上の他の機材や資料は使われることは無く、普通の授業を始めた。
授業が終わると誰かが言った。


「重さがあるなんて、簡単すぎだよな」


これは別に負け惜しみでもなんでもなく、彼女が凄いと言うことではない。彼女は予習して結論を知っていただけかもしれないし、もし何の予備知識も無く答えたところで同じである。
風も何も無い空間で風車に「何か」をあてると、その風車が回る。それの意味するところは「何か」が質量を持つと言うこと。実に簡単な論理だ。
問題は其処だ。その実に簡単なロジックさえ、僕は解くことが出来なかったのだ。林檎は枝の束縛を離れれば地面に落ちる。それは何かに引っ張られているからだ。これも言われてみれば、実に当たり前の簡単な論理である。しかし、それに気が付く人間は少ない。
要するに、僕はそんな「簡単すぎ」ことに気づくことも出来ない、取るに足らない人間だと言うことだ。しかし、そんな「簡単すぎ」なことを気づけなかったことにさえ気づくことの出来ない、自分の欠点さえ気づくことの出来ない連中よりはましだ。いや、ましでなければならない。そうとでも思わなければ、この使い道の無い中途半端な才能を、自分の欠点ぐらいは気づくことの出来る才能を持つ僕が救われない。